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次男の誕生日です 2005/Jul/22(Fri)

今日は次男の11歳の誕生日です。

11年前の今頃、私は喘息の発作を起こして救急車で緊急入院していました。
全然息が吸えなくて、本気でやばいと思っていたら看護婦さんと医者に
「酸素が吸えなさ過ぎて赤ん坊に酸素がちっともいってない」と
いわれてしまい、おなかには赤ん坊の心音の機械をつけて
私は喘息の発作止めを点滴で打ちながら
ゼーゼーいいながら、不安な夜を過ごしていた。
「赤ん坊の心音が弱ってる」と医者にいわれて、酸素マスクをして
濃度の高い酸素をいっぱい吸ってました。

陣痛はまだでした。

朝、赤ん坊の心音が途切れ途切れでやばい、帝王切開にしようかと
医者がいいにきた時に、ついでに内診。
「あら、4センチ開いてるからこのまま出産になるわ」といわれて
びっくり。ちょっと痛いなーとは思っていたけど前駆陣痛だと思ってたもん。

前の日から喘息の発作でひどく体力を消耗していたので
意地でも朝ご飯は食べました。母親が体力ないと赤ん坊うめないもん!

陣痛は順調にきて、8センチ開いてる、といわれて分娩室移動になった
でも破水しない。
先生に人口的に破水してもらった(長男の時もそう)

羊水がどろどろ。医者も看護婦も顔色が変わった。
すごい真剣な顔になって赤ん坊を早く出せ、って騒ぎに。
出せったって出せるかー!出せるもんなら出してるわー!と
心の中で絶叫していた。

いい具合に陣痛はついていって、すぐに生まれたけど
泣かない。

ん?どうしたかな、と思ったけど、陣痛の最中もおなかの中で
元気に動いていたので心配はしてなかった。
だって、お股のところに降りてまで、蹴りいれてたもん。

ほどなくして、泣き出したんだけどどうもおかしい。
ゼロゼロいってるのだ。
まるでおぼれた子みたいに。ニャアアアと泣くような声のはずが
ゲボボボボと言ってるのだ。
ゲボボボとおぼれてる声の合間に高い赤ん坊の声が
少しだけ聞こえる。

変だ・・・と思っていた。

それでも医者は抱っこをさせてくれて、すぐ裏につれていき
多分、赤ん坊の処置をしていたんだと思う。

そして1時間後には危篤。
胎便吸引症候群、って変わった名前の病名で。

おなかの中にいて、酸素が届かなくなると赤ん坊が苦しくて
お腹の中で、苦しさのあまり、うんちをしてしまうのだ。
それを酸素呼吸の真似をするので羊水に溶けたうんちを
肺にいっぱい詰め込む。

うちの息子は肺の9割を汚していた。
肺の1割で酸素してる、と。
当然保育器に入り、その中の酸素濃度をうんと高くして
酸素マスクもつけられての状態。

午前11時ちょいに生んで、午後1時には危篤です、といわれた。
チアノーゼが出ている、と気が付いたのは授乳しようとした看護婦さん。
生まれたときからどうも様子がおかしかったので、まめに見ていてくれて
チアノーゼが出てすぐ対処してくれたので、何とか一命はとりとめた、って感じ。

でも実際危篤です、と言われてしまい、1週間危篤のまま。
精神的にはかなりぼろぼろになりました。

抱っこもできないし、そばにも行けない。1日1回しか保育器のそばに行けない。
私のあまりの動揺ぶりに、医者が面会謝絶にしてしまった。
どうして自分の子供なのに会えないの!?と
何度も医者に言ったけど、私の産後の状態が悪いのと、私自身
精神的にもちょっとおかしくなりつつあり、そう決めた、と言われる。

そしてなんと、病院に置いておくと、よくないと言うことになり
産後3日で退院した。

息子の心臓につけてるセンサーの音が病室に聞こえ

トクントクンと規則的になってるのを聞き

トクン トクン ・・・・・・・・と

あれ?変だよ?聞こえないよ?と思ってると
すごい音で警告音が鳴り、看護婦と医者がばたばたと病室を横切って
保育器の前に立ちふさがる。

怖くて怖くて、そばにいけないけど病室にもいられない。
病院の廊下で立ち尽くして呆然と外から見ていた。
心臓マッサージもしている。点滴も増えてる。

自分のせいでそうなった、と思っていた。
喘息なんか起こしたからだ・・と。
妊娠しても、タバコは全然平気で
上の子の時は禁煙して吸わなくなったけど、
下の子の時はむしろつわりでタバコが吸いたくなったのを必死に我慢してやめた。
それでも火をつけてないタバコを鼻のところにもっていって
くんくんにおいをかいで我慢してた。
我慢したのに・・・我慢したのに・・・って
何度も何度も思いながら、透明の壁で仕切られている、保育器室を
見ていた。

その状態が母体によくない、と言う話合いになり、
3日で退院させられてしまった。
面会は1日1回。でも面会させてくれるわけではなくて
保育器室の外から見るだけ。
保育器にも近寄れないのだ。

それでも少しでもそばにいきたいと思ってガラスにべったりしがみついて
息子の様子を見ていた。

酸素は鼻から入れられていた。
口にはおしゃぶりがテープでバッテンに固定されてつけていた。
泣くからだ。
泣くと、心臓が弱っているので、すぐに心音が減るのだ。。。
だからおしゃぶりを口に固定させられていた。

うにゃあ。。と泣こうとすると、口におしゃぶりが固定されてるから
本能で吸ってしまう。でもまたうにゃあ。。。と何度も何度も苦しそうに
それを繰り返していた。かわいそうでかわいそうで、その場でへたり込んで
泣いてしまった。医療的に仕方ないとはいえ、泣くのを防ぐためとはいえ
テープでバッテンにおしゃぶりを固定されてる息子を見るのは
本当に切なかった。

母乳は出る準備万端でいつでも飲ませれる状態。
でも医者が止めましょう、といって薬を処方してきた。
飲まないで我慢していた。痛かったし飲んでもらえないおっぱいは
冷凍庫にいっぱいになっていった。
10日経っては古いものから捨てていく、を繰り返して
むなしくなっていって、薬を飲み始めた。

初乳だけはとっておきたいと思って医者に残してあります、と言ったら
じゃあそれはミルク飲めるようになったらあげようね、といわれて
ちょっとだけほっとした。

息子の保育器には絶乳、面会謝絶と、書かれた紙が張ってある。
ミルクを飲ませて万が一むせたら、肺がすでに感染症を起こしてるから
もう絶対助からない、といわれた。

いつになったら飲ませれるんだろう・・・と
それよりも出産の時以来抱っこできなかった息子は
いつになったら抱っこできるんだろう、と呆然と見舞っていた。

後遺症が残ります。右半分か左半分、どっちか今はわからないけど
多分体の右側に障害が少し残ります。
残るといっても、動かせないのではなくて、握る力が弱い、
足があがらない、そういう障害です。といわれた。

でもその説明を受けたって事は、もう峠は越えたんだと思って
障害くらい!とむしろ喜んで受け入れた。
こんな小さな子のお葬式を出さなきゃいけないの?と
泣きつづけていたんだもの、障害位へっちゃらさ。と
ずいぶん肝の据わった母さんになった。まだ22だったのになあ。

障害は実際に残った。それはいろんな場面で見受けられたけど
よくなるように、と毎日マッサージして
お風呂でも温めながらマッサージして
よく使わせるようにしていた。

気が付いたら「障害?なにそれ?」って位になったよ。
もうないの。今11歳になるけど、障害なんか1つも残ってない。
徒競走では1位になる、リレーでも全力疾走できる息子になった。
うでの力もちゃんと使えてる。野球大好き。

あふぉうな息子だけど、生まれたときにこんなに頑張って
生き延びたんだ。

なんて事を今思い出しながらしみじみと日記を書いています。

明日は息子のリクエストの
お手製の特製ミートソースと、から揚げと、ケーキです。

明日は頑張って作らなきゃねー。


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